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「四の五の言わずにやれ」
と言った際に、
「ではニ、三よろしいですか?」
と切り返してくるのは
これは有名な返しなんですか?
それともこの子天才なんですか?
あと僕なめられているんですか?
司会者「ははあ。チューブはOKだけどキリンジはムリってことですね」
kenzee「そう。長渕は童貞ミュージックだが矢沢はヤリチンミュージックだ。ヒップホップもそう。服装やスタイルがヤリチン的だからといって音楽までそのままヤリチンとは限らない。例えばブルーハーブは童貞ミュージックだがZEEBRAはヤリチンミュージックなのだ。繰り返し言うが「童貞ミュージック」の演奏者が童貞というワケではない。あくまで受容する側、聴き手の心の童貞な部分を直撃するか否かにかかっている。ナゴムは童貞ミュージックだがBOOWYはヤリチンミュージックだ。ゆずやコブクロは童貞ミュージックでEXILEは当然ヤリチンミュージックだ。そしてこれは今に始まったことではなくて歴史的に分類が可能なのだ。たとえばはっぴいえんどは童貞ミュージックだがCAROLはヤリチンミュージックだ」
司会者「あ、完全にわかりましたワ。モンゴル800は童貞ミュージックでオレンジレンジはヤリチンミュージックってことですね! AKB48は童貞でモーニング娘。はヤリチンだと!」
kenzee「そうさ。だが、音楽の世界にはときどきどうしようもない「天才」がいて、両方を完璧に兼ね備えた世界を描いてしまう者がいる。たとえばブルーハーツなどは見事にヤリチンでありつつ童貞だ。尾崎豊もそうだ。あれほどヤンキーの心を捉えながら童貞ミュージックたりえている。岡村靖幸など眩暈がするほど見事に両方の要素を兼ね備えている。最近、オレが思うのは「人を感動させる」「人の心をえぐる」というのはつまり、この童貞がヤリチンを、あるいはヤリチンが童貞を越境する瞬間に爆発するなにかなのではないかということだ。速水さんの議論ではよく「オタク」と「ヤンキー」に分解し、民俗学的な分類を図ろうとする試みが見られる。「ケータイ小説的」における「再ヤンキー化」なども要はそういう議論だ。だが、人間とはオタクとヤンキーを同時に内包しているものなのだ。考えてみよう。ヤンキー文化は常にオタク的な線の細さを要求される要素を内包している。暴走族のバイクのカスタマイズやチューンアップなど相当オタクな知識や技術が要求されるだろう。ヒップホップ文化においても一流とされるDJの音楽の知識は凄まじいものがある。また、オタクも部屋に閉じこもってばかりいるかといえばそうでもない。コスプレイヤーなどは竹の子族にも似た開き直りがなければ奇抜な衣装で(手作り)人前にでる、ということはできない。おそらくこの両者(童貞とヤリチン)が微妙なバランスで共存するとき、人は「感動」するのだろう。
袋の中の布袋 葛飾北斎 1830~1850年頃
Daikoku emerging from Hotei’s sack. / School of/style of Hokusai
布袋の袋から出る大黒 絵師不明 19世紀
ぶーしゃかLOOP (by yasuyukiINFO)